鈍行

電車に乗るとき普通早い方、鈍行よりも急行に乗るのが普通だろう。それがいつもの通学通勤の電車なら尚更だ。

見知らぬ土地にいけば、鈍行に乗るのも楽しいはずだが、観光でもスピードが求められている。少し余裕のない気がするのだ。

 

よく、面白すぎてページを捲る手が止まらないという言葉を耳にする。

しかし、久しくそういう経験はしていないような気がする。

集中力がないというのもあるだろうが、面白いと感じるとそのページに停まってしまうことの方が多い。

面白いと思った文章を一度自分の心に持ち帰っているのかもしれない。そこには一種の対話が働いている。

 

早く次の本を読みたい、この本を読み終えたいと、ページを捲る手を早めてしまうことがある。そういうときはただ文字をみているだけになってしまう。

各駅停車をしながらも始発駅から終点まであっという間に読み進める。そういう経験ができたらどんなに幸せだろうか。

集中力よ、帰ってこい。。

『トニオ・クレーガー』トーマス・マン

はじめてのマンの作品となった。

マンは他にも持っているのだが、なかなか読む機会がなく、積んだままになっていた。

しかし、マンの自伝的小説と呼ばれる『トニオ・クレーガー』が新訳で発売されるということで、ようやく手に取ることができた。

 

私が思うマンは文学者ではなくて批評家であった。積んでいる本も『ドイツ人とドイツ』、『五つの証言』であり、ペンを持ってナチスに抗った人という印象をマンに対して漠然と抱いていた。

しかし、ノーベル賞受賞作である『ブデンブローク家の人々』を始め『魔の山』など、今なお売れ続けるベストセラー作家というのが一般的なマンの見方であろう。

そして『トニオ・クレーガー』も芸術家としてのマンの葛藤、成長を非常に美しく描いたものであり、マンの芸術家としての素質が凝縮された作品となっている。

 

さて、マンはいかにして芸術家となったのだろうか。『トニオ・クレーガー』の主人公トニオの変遷を追いたい。

まず、自分に芸術の才能があると思いながらも、「普通の」人たちに憧れ、恋をしていた少年期。

つぎに、「普通の」人たちから離れ、芸術家の道に進んだ青年期。

最後に、芸術家になって成功しても尚、自分の心の中で燻っていたかつての憧れを再認識する成人期。

という構成となっている。

そこには決して交わることのできない二つの領域の間で引き裂かれるマンの姿がある。

「才能をもった人」の領域と「普通の人たち」の領域があるのだ。

マンに言わせると、「孤独な死んだ世界」と「透明な生きた世界」ということになろうか。

どちらが住みやすいかは明白だろう。しかし、なぜか生きづらい方に進んでしまう。

大人しく「透明な生きた世界」に進めば良いものを、なにかの烙印がそれをさせてくれない。

こういう経験をする人は少なくないだろう。

マンの場合は、あらゆる人間的なものを犠牲にして作家としての名声を得るまでに至る。しかし、芸術家になるために彼は死ななければならなかった。この代償は壮絶なものである。

そんなマンも「透明な生きた世界」への憧憬を消し去ることはできなかったようだ。

トニオは旅に出て、かつての憧れを再認識していく、そして生き返る。

自分の運命を受け入れて、前に進もうとするトニオの姿が非常に力強く美しく描かれており、その姿に多くの人は心を捉えられるだろう。

 

マンのような経験をする人は一定数存在する。

しかし、区別しなければならないことは、マンの場合は「才能をもった人」が「普通の人たち」の世界に憧れているのである。

「普通の人」が「才能をもった人たち」の世界に憧れるのとは違う。

前者は才能が救ってくれる場合もあるだろうが、後者が行き着く先は多くは挫折ではないか。

才能は芸術だけに限られないが、マンの苦悩は常人の苦悩から一線を超えたものを感じるのである。

「必然的に間違った道へ進むしかない人間もいるのだ。そういう人間にとっては、正しい道などそもそも存在しないのだから」というマンの言葉はたしかに勇気づけられる。

しかし、一方で、己の道を進むのには相当な覚悟をもって進まなければならない、13年間死ぬ覚悟がなければダメだ、とマンのトニオは教えてくれているのではないだろうか。

 

 

 

『箱船の航海日誌』ウォーカー(光文社古典新訳文庫)

「箱船」という文字からわかるように、聖書のノアの方舟を題材とした物語だ。

 

聖書では、神は人間の堕落に怒って、大洪水を巻き起こし人類を滅亡させようとするのだけど、品行方正なノアだけは助けようと、ノアに巨大な方舟をつくるように命じる。

ノアが600歳のときにいよいよ大洪水が発生する。601歳のときに大地の水が乾くので、およそ1年間ノアの一家と動物たちは方舟のなかで過ごすことになるのだが、その間の様子は聖書には全く書かれていない。

いくら巨大とはいえあらゆる動物のつがいが乗り込んだ方舟で、1年間なにも起こらないはずはない。

動物たちはどのように過ごしていたのだろう。箱舟での生活で彼らはどう変化したのだろう。

興味は尽きない。

 

ウォーカーが描くのはそうした箱舟での生活である。

登場する動物たちが非常に個性的で、またイラストも可愛らしくワクワク読み進めることができる。

ところで、この本を読む上で「悪」というテーマを見過ごすことはできない。

もともとは人間の悪を一掃するための大洪水なのだが、皮肉なことに箱舟での生活を過ごすなかで徐々に別の悪が醸成されていくのがわかる。

箱舟に乗り込んだ動物の中にスカブという醜く暗い動物がいる。

スカブは過去に偶然うさぎを食べてしまう、つまり肉食を知るのだが、そのときに彼の中の悪が奔出する。

唯一肉食を知るスカブが、純粋無垢な動物たちと生活を共にする。

スカブに唆されて、トラやオオカミといった動物たちが悪に目覚めていく。

はやく地上におりて、ほかの動物を食い殺したい。そんな殺伐とした雰囲気が箱船に漂い始める。

自然と食べる側と食べられる側が分かれてくる。

小動物たちは怯え、なかには箱舟から脱出する動物まで現れてしまう。

地上に降りたところでこの本は終わるのだが、小動物たちよ頑張って生き延びよ!と願わずにはいられない。

 

さて、ここでは動物たちの肉食が一つの悪として提示されているが、もちろん人間もその射程に入る。

この本が書かれたのは人類が総力戦を経験した第一次世界大戦のあとである。

悪の念頭には戦争、殺人があったに違いない。

殺人がいけないというのは当然のこととして受け入れられているが、悪は殺人に限られない。

人はどういうときに悪を感じるだろうか。

なにかの規範に違反するとき人は悪を感じるのではないか。

たとえば、かつてであれば同性愛は非常にタブーと感じられていた。

そういう空気のなかで、同性愛に目覚めてしまうとその人は悪と感じるのである。

規範と欲求のせめぎ合いが行われているのだが、規範がいつも正しいわけではないのでややこしくなる。

さらに悪というのは厄介なもので向き合えば向き合うほど大きくなってしまう。

そうして抑圧された感情は刺激を与えられると爆発する恐れがある。膨らんだ風船のように。

それが無意識で行われている場合には危険性はさらに高まる。

 

この物語は、悪についていかなる教訓をもたらしてくれるだろうか。

私たちの心には悪が潜んでいること、さらには、悪を克服してもまた違う悪が生じる可能性があること。

これらを自覚することで悪とうまく付き合っていく必要があるということか。

しかし、悪はほんとうに悪いことだろうか?

先にも述べた通り、規範が間違っている場合も少なくない。

そもそも規範など立てることができるのか、という問題すらある。

人間が社会で生きていくなかで、規範というものは欠かせない。しかし、むしろそういった規範が人間にとって必要悪であり、自分の素直な欲求が善であるという考え方もできるのではないだろうか。

あまり厳格に欲求に対処するのではなく、ある程度自分の感情を認めてやる、そういう態度があった方が世の中上手く回るような気がするのだ。

とんでもないところに落ち着いてしまった気がするが、「悪」について考えさせられた本でした。

村上春樹『風の歌を聴け』

台風が近づいていた夕方。

吹きつけた風に僕の生も流れていった。

一生懸命に働いていても、ボーっと過ごしていても時間は過ぎ去って行く。

風は時間の流れを教えてくれているのだろう。風車のように時計は回る。

 

青春に吹く風は台風のように荒々しく不安が混じっている。

進路、就職、恋愛。あらゆる取捨選択が求められる。

選択をするということはほかの選択肢を諦めるということだ。

人生は諦めの連続。何かを選び取り何かを失う。それが人生なのだろう。

諦めるという痛みに傷つき耐えて大人になっていく。

 

実家は海に近かった。思い悩んだとき、深夜によく海に行った。

今では川沿いを歩く。風を浴びたくなるのだ。

岐路に立ったとき風を感じたくなるのは、風が生を実感させてくれるからだと気づく。

ニーチェの言葉が深く刺さる。

 

「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」

 

 

どんな人にも風は等しく吹く。

風は何を語りかけているだろうか。

風の歌に耳を澄まそう。

首にぶら下がっている時計の針は今も動いている。

京大式カード

どういう風に本を読むか。

どうやってメモやノートをとるか。

何度も試行錯誤したがいまいちハマらない。

 

昨日はメモパッドを探しに丸善に行った。

「京大式」と書かれたB6サイズのカードが置いてある。

これは梅棹忠夫が『知的生産の技術』で紹介している記録法である。

方法論や技術論の類は少し買うのを躊躇われるが、言わずと知れた名著なのでこれを機にカードとともに購入した。

 

なるほど、梅棹自身もやはり相当な試行錯誤を繰り返したらしく安心する。

大事なことは、自分の頭を信頼しないということだろう。

記憶より記録なのだ。

一回読んだだけで本の内容を理解できるなんて思わないほうがいい。

読みっぱなしにしない。これが一番大事で一番難しい。

読みっぱなしでは知的消費で終わってしまうのだ。

読書を整理して、いかに知的生産に利用できるか。

京大式カードはその一つの助けとなるだろう。

 

読書論の類は実践しなければ意味がない。

自分なりの工夫を織り交ぜながら、自分のスタイルを確立する。

そうでないとたくさんの本は読めないのでないだろうか。

はじめるのに遅すぎることはないという言葉を胸に、しばらく京大式でやってみる。

 

ホセアの預言

預言者の一人、ホセア。

彼の預言は、王国の腐敗に対する断罪をもって語られる。

 

    わたしは、かれらを死から救うことがあろうか。

    死よ、おまえの災いはどこにあるのか。

    陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか。

    あわれみは、わたしの目から隠されている。

 

非常に厳しい、突き放した態度だ。

しかし、一転最終章では「愛の預言」が語られるのだ。

 

    わたしは、彼らのそむきをいやし、

    喜んでこれを愛する。

    わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。

    わたしはイスラエルにたいしては露のようになる。

    彼はゆりのように花咲き、

    ポプラのように根をはり、

    その枝は茂りひろがり、

    ⋯⋯⋯⋯⋯

    彼らは帰って来て、わが陰に住み、

    ぶどうの木のように花咲き、

    ⋯⋯⋯⋯⋯

 

美しく、慈愛にみちた言葉である。

彼の言葉は私たちの心の根にも行き届く。

 

ホセアにはゴメルという妻がいた。

しかし、ゴメルは愛人に溺れ、棄てられ、娼婦に堕ちる。

ホセアは、そんな哀れなゴメルを買い戻すのだ。裏切られたのにも関わらず。

悲しみの奥深くから溢れ出す愛。

ホセアにはゴメルとイスラエルの人々が重なって見えたのだろう。

表面的な感情を突き抜けた先の普遍的な感情の存在をホセアの愛の預言は感じさせるのである。

 

 

(山形孝夫『聖書物語』より)