『トニオ・クレーガー』トーマス・マン

はじめてのマンの作品となった。

マンは他にも持っているのだが、なかなか読む機会がなく、積んだままになっていた。

しかし、マンの自伝的小説と呼ばれる『トニオ・クレーガー』が新訳で発売されるということで、ようやく手に取ることができた。

 

私が思うマンは文学者ではなくて批評家であった。積んでいる本も『ドイツ人とドイツ』、『五つの証言』であり、ペンを持ってナチスに抗った人という印象をマンに対して漠然と抱いていた。

しかし、ノーベル賞受賞作である『ブデンブローク家の人々』を始め『魔の山』など、今なお売れ続けるベストセラー作家というのが一般的なマンの見方であろう。

そして『トニオ・クレーガー』も芸術家としてのマンの葛藤、成長を非常に美しく描いたものであり、マンの芸術家としての素質が凝縮された作品となっている。

 

さて、マンはいかにして芸術家となったのだろうか。『トニオ・クレーガー』の主人公トニオの変遷を追いたい。

まず、自分に芸術の才能があると思いながらも、「普通の」人たちに憧れ、恋をしていた少年期。

つぎに、「普通の」人たちから離れ、芸術家の道に進んだ青年期。

最後に、芸術家になって成功しても尚、自分の心の中で燻っていたかつての憧れを再認識する成人期。

という構成となっている。

そこには決して交わることのできない二つの領域の間で引き裂かれるマンの姿がある。

「才能をもった人」の領域と「普通の人たち」の領域があるのだ。

マンに言わせると、「孤独な死んだ世界」と「透明な生きた世界」ということになろうか。

どちらが住みやすいかは明白だろう。しかし、なぜか生きづらい方に進んでしまう。

大人しく「透明な生きた世界」に進めば良いものを、なにかの烙印がそれをさせてくれない。

こういう経験をする人は少なくないだろう。

マンの場合は、あらゆる人間的なものを犠牲にして作家としての名声を得るまでに至る。しかし、芸術家になるために彼は死ななければならなかった。この代償は壮絶なものである。

そんなマンも「透明な生きた世界」への憧憬を消し去ることはできなかったようだ。

トニオは旅に出て、かつての憧れを再認識していく、そして生き返る。

自分の運命を受け入れて、前に進もうとするトニオの姿が非常に力強く美しく描かれており、その姿に多くの人は心を捉えられるだろう。

 

マンのような経験をする人は一定数存在する。

しかし、区別しなければならないことは、マンの場合は「才能をもった人」が「普通の人たち」の世界に憧れているのである。

「普通の人」が「才能をもった人たち」の世界に憧れるのとは違う。

前者は才能が救ってくれる場合もあるだろうが、後者が行き着く先は多くは挫折ではないか。

才能は芸術だけに限られないが、マンの苦悩は常人の苦悩から一線を超えたものを感じるのである。

「必然的に間違った道へ進むしかない人間もいるのだ。そういう人間にとっては、正しい道などそもそも存在しないのだから」というマンの言葉はたしかに勇気づけられる。

しかし、一方で、己の道を進むのには相当な覚悟をもって進まなければならない、13年間死ぬ覚悟がなければダメだ、とマンのトニオは教えてくれているのではないだろうか。